ニートだった私が、祖母の伝記を書いた話
私が初めてインタビューをした相手は祖母だった。ライターになるよりずっと前、23歳の頃だ。
私は東京の学校を卒業後、新卒で広告会社に入社したが、メンタルの調子を崩してあっという間に辞めてしまった。札幌の実家で静養するようになった私は、もともと作家を目指して小説を書いていたこともあり、リハビリがてら文章を書くようになった。そして、同居する89歳の祖母の伝記を書くことを思いついた。
私が祖母の人生について書きたいと思った理由は、祖母の人気にあった。祖母は親戚中から「おばあちゃん、おばあちゃん」と慕われ、みんなが祖母に会いに来る。米寿のお祝いには43人もの人が参加し、あちこちから花や祝電が送られてくる。まるでちょっとした有名人みたいだった。
子育てと夫の介護に人生を捧げた平凡な主婦である祖母が、なぜこんなにも人気者なのか。
私は祖母から人生の話を聞くことで、その理由をあきらかにできるんじゃないかと考えた。私は、いつか祖母のようになりたいと思っていたのだ。
また、祖母の三女である母はよく、「おばあちゃんの人生は大変なことがたくさんあったから。今のこの幸せな時間は、おばあちゃんにとって人生のボーナスタイムなのよ」と言っていた。
祖母はずっと、祖父の介護をしていた。私が生まれる前に祖父が倒れて半身麻痺になり、車椅子生活になったのだ。祖父は私が18歳のときに亡くなったので、祖母は20年近くも介護をしていたことになる。
今の祖母の幸せは、そんな苦労を補って余りあるものなのだろうか。人は、私は、苦しんだぶんちゃんと報われるのか。
ニートになって先が見えない今、祖母の人生を知ることがなんらかの指針になるかもしれないと思った。「生きていればいいことがある」といった平凡な教訓でも、心から納得できれば希望になるかもしれない。
その日から私は、祖母にインタビューを開始した。ソファに並んで座り、幼少期から少しずつ人生を語ってもらう。
「私の人生なんて平凡だもの、なんも話すことなんてねぇべさ」
祖母は最初、そう言って顔の前で手を振ったが、いざ語りはじめると饒舌だった。もともとおしゃべりな人なのだ。
私は一週間かけて祖母の話を聞いた。そのほとんどが初めて聞く話で、驚き、笑い、尊敬した。この人の孫でよかった、と心底思った。
◇
祖母は大正7年に秋田県の港町で生まれた。14歳で子守奉公に出て、23歳で親が決めた相手と結婚するために札幌に渡る。
彼女の結婚生活は苦難の連続だった。兄嫁は彼女のことを奉公人のように扱い、家事に育児にこき使っては意地悪をした。そして、結婚から3ヶ月後には第二次世界大戦が開戦。祖母は農家に働きに出て家計を支えた。結婚して何年経っても子どもができなかったため、夫の家族からは辛くあたられた。
ようやく終戦を迎え、彼女は4人の娘に恵まれた。長女を出産したときはすでに30代で、当時としては遅い出産だった。戦後の貧しさの中、海苔屋さんでパートをしながら一生懸命に子育てをし、やがて12人の孫に恵まれる(私は12番目の孫だ)。
祖母は自分たち家族のことで精一杯だったはずなのに、困っている人がいれば進んで手を貸した。
たとえば遠縁の男性が病気になったときは、貯金をはたいて治療費を工面し、自宅に男性を住まわせて最期まで看病をした。
炭鉱で働いていた知り合いの息子さんが、事故の遺体処理によってノイローゼになったときは、働けなくなった彼をしばらく家に置いて面倒を見た。
知り合いの女性が亡くなり、遺体を誰が引き取るかで親族が揉めていたとき、「引き取り手がいないのは可哀想だから、私が引き取りましょうか?」と名乗り出たこともあった(さすがに親族じゃない人間に引き取らせるわけにはいかないと断られたらしい)。
4人の子を育てながら、事情により預け先を探していた親戚の子の面倒も見た。娘たちが大人になってからは孫が生まれるたびにお産扱い(産後の家事と育児を手伝うこと)をして、自分の娘だけではなく、姪や娘婿の妹のお産扱いまでした。
祖母はとある宗教を信仰する家庭に生まれ、「人のため、世のために心と身体を惜しみなく使わせてもらうことが神様へのお礼になる」と信じていた。そんな祖母にとって、困っている人に手を差し伸べるのは当たり前のことだった。
◇
祖母が愛されていたのは単に愛嬌があるからだけではなく、彼女が進んで人助けをしてきたからだ。彼女は見返りを求めて人を助けてきたのではなく、自然とそうしてきた。
私はどうだろう?
私はいつも、自分のことばかり考えている。なぜ私はうまくいかないのか。どうしたら幸せになれるのか。人目は気にするくせに、「人を助ける」「人の役に立つ」なんて考えたこともない。
私は誰かに、何かをしてあげられるのだろうか?
◇
インタビューを終えるとそれを文字起こしして小説風にまとめ、同人誌専門の印刷所に注文し、本のかたちにした。
親戚中が本を読み、褒めてくれた。「おばあちゃんの人生を書き残してくれてありがとう」とお礼を言われることもあった。それまで小説を書いていてもお礼を言われることなんてなかったから、新鮮な気持ちだった。
読み書きが達者ではない祖母は時間をかけて少しずつ自分の伝記を読み、言った。
「私は学がないから自分のことなんも残せねぇけど、こうやってサキちゃんが書いてくれるんだから、いやはやありがてぇわぁ」
そうだ、書くことは自己表現だけではない。人の話を残すこと、伝えることもできるんだ。
当たり前なのだが、私は初めてそのことに思い至った。それまでの私は、自己表現のためだけに文章を書いていたから。
祖母の伝記を書くことも自己表現のひとつだ。しかし、私がこうして本にして残したことで、今はまだ幼い祖母のひ孫たちもいつか読むことができる。私が伝記を書いたことによって祖母の人生を知る人が一人でも増えたら、それは価値のあることだろう。
祖母の言葉を後世に残すために、私の書く力を役立てることができた。
私でも書くことで誰かに貢献できるんだ……!
ニートになって「私なんてなんの価値もない」と自信を失っていた私は、祖母の伝記を書いたことで、少しだけ自分を認められるような気がした。
◇
さて、伝記の最後は、私と祖母のこんな会話で締めくくられている。
ある日、祖母が聞いてきた。
(中略)
「だってさ、今年までのこと書いても、これから先、何年も何十年も続いてくんだよ。88歳のところで本終わられたら困るべさ」
どうやら祖母はあと何年も何十年も生きていくつもりらしい。
「大丈夫だよ。これからのことは私がまた書き足していくから」
「本当かい」
「うん。これからおばあちゃんが死ぬまでのこと、ちゃんと書き留めておくから。それでまた本書くから」
「そうかい」
祖母は安心したように笑ったが、ふと思いついたように言い足した。
「本の最後にはちゃんと、今が人生で最高潮に幸せだって、書いとくれよ」
祖母は私が28歳のときに亡くなり、私はその6年後にライターになった。
私はまだ、祖母との約束を果たせていない。彼女の88歳以降の物語を書いていない。祖母の老後は平穏で、特筆すべき事件は何も起こらなかった。だからこそ、いかに面白く書くかは腕の見せどころだろう。
おばあちゃん、いつか必ず書くので、〆切はもう少し待っていてください。
文・吉玉サキ