「良い母親になりたい」という気持ちを手放した話
ずっと日本人になりたいと思っていた。
中国人と日本人のクオーターとして生まれ、幼い頃はそれぞれの国を行ったり来たり。どちらの国でも一定数の人たちから同じ量の差別を受け、私に向けられる剥き出しの嫌悪の前で「ありのままの自分を受け入れてくれる場所なんてないんだな」とすなおに思っていた。どっちにいても嫌われる存在なのだとしたら、せめてその国のルールを守って、無害そうな顔で笑って、みんなが嫌な気分にならないようにしようと思った。嫌われたくなかった。それ以上に、誰かが私のせいで嫌な思いをするのは、自分が傷つけられることより怖かった。
定住したのは日本だった。「日本人ならどうするか」。私の判断基準はいつもそれだった。体を動かすことが嫌いなくせに、みんながそうしていたので運動部に所属した。みんなと同じ頃に受験も就活もして、みんなと同じ足並みで歩けてることにホッとした。文学が好きだったけど、イマドキの子は文学なんてしないと気づいて、芥川や漱石のカッコよさについて誰とも話さなかった。いつもまわりの人を注意深く観察して、自分が「普通」からはみ出してないことに安堵していた。
成人し、子どもが生まれてからはそこに「母親らしさ」が加わった。誰に頼まれたわけでもないのに、つつましく、献身的な母親になろうとした。一人暮らしの頃に買い集めていたささやかな雑貨は「母親らしさ」にそぐわない気がして全部捨てた。ママ友が訪ねて来たときに、違和感のない人でいたかった。器用な方だしこれまでそうやって生きてきたから、結構うまくできていたと思う。なのに、ある日隠しようのない虚無に襲われた。36歳のときだった。
むなしさの理由がわからない。子どもはすっかり大きくなり、親を介さない満ち足りた交友関係を築いている。夫とも関係は良好で、互いに充実感を得られる仕事に就いている。近所を歩けばけやきの木に明るい緑の葉がついている。汗ばんだ首筋を心地いい風が通り抜けていく。そんな美しい世界に囲まれながら、自分がどんどん落ちていった。
目の前に色彩があることはわかるのに、色彩として受け止められない、と言えば伝わるだろうか。見えているものが、見えないはずのものに取って代わられて、絶望の底で、あれ、なんか私ヤバくない?ともう一人の私がうろたえていた。
毎日ではない。時々、襲われるのだ。たとえば群青の空に飛行機を見たとき、近所を散歩する無邪気な犬を見たとき、コンビニで好物の味のサンドイッチに手を伸ばしたとき。自分の実存が揺らぐような、なぜ生きてるのかがわからなくなるような、そんな心許ない感情だった。
こんなにも満ち足りてるのに、おかしいと思った。こんな感情を抱くことに後ろめたさを感じた。だから、その感情を無視した。大丈夫だと押し込めたけど、しばらくすると原因不明の熱が出た。38度の熱が三日ほど続いて、何の検査をしても陰性だった。病院からの帰り、フラフラになりながら衝動的に本屋に入って、文芸誌を買った。
家に帰ってページをめくった。初めて読むものばかりなのに懐かしかった。熱が下がりリビングに降りた私の手にある文芸誌を見て、子どもが「それ何?」と聞いてきた。
「買ったの? 自分で?」
そのときの息子の驚いたような顔。思えば、衣食以外で、自分のものを買ったのは、子どもが生まれてから初めてだった。働いたお金の大半は「子どもの将来」のために貯金して、買う本といえば子どものためのものくらいだったから。
自分のために、しかも暮らしに関わらないようなものを買った母親の姿を見た息子が、明らかに動揺していた。「お金、大丈夫?」「どうして買ったの?」。心配そうに聞いてくる息子に「たまたま本屋にあったから」と返した自分の言葉に、ピタッと来なさがあったんだと思う。何度も言い淀んでいるうちに、ぽとりと「ママはこれが好きなんだよね」と溢れた。自分の身丈が縮んで、芥川や漱石のカッコよさに胸が震えた、あの頃に戻るような感覚だった。大人の私の口から出たのは、子どもの頃からずっと隠していた自分の言葉だった。自分がこの本を手に取った理由がようやくわかり、自分のために、自分のお金を使えた自分を初めて誇らしく思った。
息子は「そうだったのか!」と雷撃を受けたときみたいな表情を見せた。「ママにも好きなものがあり、物欲という感情があったのか」、そんなことが透けて見えるようだった。その表情に、私がこれまで自分に課してきた生き方は、きっと子どもの母親観すら変えてしまう歪な磁力だったと気づいた。
この国のいい母親であろうとした。それって本当に私や家族にとっていいことだったんだろうか。自分が思ういい母親像に自分を押し込めて、その偶像を息子に信じ込ませ、彼がそのまま大人になったとしたら。きっと息子に「母親とはこうあるもの」と縛り付ける恐ろしい未来に繋がっていたと思う。そもそも、いい母親って何なのか。そこに私の思い込みや、一切の社会圧はないか。私は誰のご機嫌を伺いながら生きているのか。そんな当たり前のヤバさに、やっと気づいた。
それから、文芸誌を買うのが毎月の楽しみになった。発売日はソワソワして、仕事を早めに終えるようになった。読みかけの本を閉じられず、週末は昼近くまで寝坊するようになった。毎日の床掃除は、二、三日置きになっても暮らしに支障はなかった。洗濯物は畳まなくても大丈夫で、「心を込めた手料理」を作る回数も激減した。その過程で、夫が作ったご飯の方がおいしいことが自明となり、たまに家族で近所の飲食店へ行き、お喋りしながら月が出た夜の街を歩いて帰る楽しさを知った。そうやって、一つひとつ手放した。
欲しいものを欲しいと言い、時々は自分のために何かを買う。そんな私を、子どもは今、母親とはそういうものと思って見ている。我慢を美徳としなくなった私を見て「子どもや夫がかわいそう」と言う人もいるだろう。「母親とはこうあるべきだ」という指摘や、中には「だから中国人は(日本人は)ダメなんだ」の言葉を発して、嗤う人もいるはずだ。
本を読んで堂々と泣いて、声を上げて笑って、子どもに「何読んでるの?」と聞かれれば読み聞かせる。「続きどうなるの?」「何そのストーリー、すごい感情になるんだけど」。私に後ろ指をさす人は、そんな会話で家族を営む私たち親子と違う世界線を生きている人だと、切り離して考えることができた。
見えない誰かの価値観に合わせて生きる必要なんてない。そんな当たり前にやっと気づけた話。ずっと日本人になりたいと思って生きてきた私は、その感情を手放した。ほしかった自分を捨てたとき、はじめて自分が手に入ることを知った私は、ようやく自分を生きられている気がしてる。
文・山本莉会