20年越しの「ただいま」

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一番古い記憶は、庭に面した古い生家の広縁。そこに差し込む光にきらきらと舞うほこりを目で追っているものだった。それがいつなのか、もう思い出せない。

生まれた家の庭が好きだった。広い芝生があって、その奥には木が生い茂っていた。母の花壇があった。祖父の小さな畑があった。それが僕の原風景だ。

春には咲いたばかりのクロッカスをしゃがみこんでずっと眺めていた。夏には妹と茂る木の中でセミをとって遊んだ。秋には祖父の畑で母と妹と僕でさつまいもを掘った。冬には芝生一面に積もった雪で遊んだ。

そんな時間がずっと続くと思っていた。疑いもしなかった。

世界が終わる日

小学4年生のこどもの日に祖父を亡くした。その夜のことははっきりと覚えている。僕は妹と涙を流しながら抱き合って、ずっと震えていた。

それからだ。すべてが変わってしまったのは。

実の父であるところの祖父と関係が良くなかった父は、祖父の喪失をきっかけに精神を病み、仕事もやめてしまった。僕の家はアパートを経営していたから、生活に過度な支障が出ることはなかったが、父親の変貌は家族の暮らしを一変させた。

父は人を恐れるようになった。人を信用しなくなった。それがたとえ自分の子どもであったとしても。

小学5年生の終わり頃から、僕は父に中学受験のための勉強を強いられた。そこに選択肢はなく、それからの日々には逃げ場も、助けもなかった。

理不尽な痛みが土砂降りのように叩きつける中、世界から切り取られたような場所で僕は色々なことを諦めていった。

結局中学受験は失敗し、僕は地元の公立中学校に進学することになった。

そしてこの頃にはすでに老朽化した生家の建て替えが決まっていた。

最後の思い出

少し珍しいが、僕ら家族は敷地内の別の場所に引っ越した。だから必然的に生家の取り壊し現場のすぐそばで生活することになる。中学校に進学した直後から取り壊しは始まった。

はじめに芝生が剥がされた。

僕が一番好きだった芝生は、重機によってえぐり取られて、ゴミのように処分された。

次に建物が壊されていった。

祖父の部屋、僕と妹の部屋、ダイニング、リビング、幼少期に過ごした家族の寝室。

順番に壊されていくさまを、工事用の覆いもなしに僕は新しい「家」から眺めていた。

中学生になった僕の部屋からは、そんな風景が毎日見えていた。取り壊し作業なんて通常なら数日で終わるはずなのに、不思議と数ヶ月見続けていたように思える。

目の前で壊されていく生家。逃れられない父親の虐待。

独りで泣きながらつぶやいた。
「帰る場所、なくなっちゃった」

僕の日常と世界は、明確にここで断絶された。

悔しかったと思う。そして間違いなく悲しかった。大人になった今なら、なにかできることもあったかもしれないが、あの頃の僕は無力で希望を失ったただの子どもだった。

取り壊し中の家に忍び込んだことがあった。僕と妹と、それから年の離れた弟の3人で。瓦礫を踏み分けて家に入る。ダイニングやリビングはまだ形を保っていた。僕らはそのまま2階に行った。2階の部屋に入ると、夕日が見えた。外壁が取り壊されてしまっていたからだ。さながら『スタンド・バイ・ミー』のようなちょっとした冒険は、きょうだい3人揃っての最後の思い出になった。

つきまとう悲嘆

新しい家で時間は無慈悲に流れた。

父の精神疾患は悪化の一途を辿り、記憶も言動も安定せず、僕らきょうだいは刻々と変わる状況に振り回されていた。

だがそんな時間も永久に続くわけではない。

僕は大学進学とともに上京し、家を出た。ようやく現実の危機からは解放された。

次に妹が大学進学で家を出た。妹とはそれが最後だ。今となっては生死もわからない。

残された弟や母に会いに、僕は何度も帰省した。
けれど「家」に入るとき、どうしても「ただいま」といえないのだ。頭に浮かぶのは「おじゃまします」という言葉。僕にとって美しい思い出が詰まった生家こそが家であり、痛みと苦しみが詰まった「家」は、帰る場所ではなかった。

僕は何度帰る場所を喪えばいいのだろう。

美しい生家の記憶はさながら悪夢だった。

それは故人との思い出に似ている。死を受け入れられなければ、美しい思い出すらもつらいものになってしまうのだ。

気づけば僕自身も精神科に通うようになっていた。

生家の喪失と父親からの虐待。二重のトラウマ治療が始まった。

だが喪失に絶望していたのは僕だけではなかったらしい。

実家に帰るたび、泥酔した父親は人生に絶望していること、もう死にたいことを僕に聞かせてきた。彼はもうこの現実を生きてない。どこか別の世界か、あるいは遠い過去に意識が向かっている。僕はそんなことを感じていた。

壊れかけた父親を見るたび、自分が経験してきたあの恐怖と絶望は一体何だったのだろうと虚しい気持ちで一杯だった。憎み続けられればよかった。恐れ続けられればよかった。でも大人の自分が父に向ける感情は怒りでも恐怖でもない。憐れみだった。

そんな抜け出せない泥沼のような時間と空間の中、母親だけは不思議と正気に見えた。楽観とも達観ともつかない、ただあるがままを受容するような母親の態度は、すでに崩壊してバラバラに飛び散るのを待つだけだった家族を紙一重で繋ぎ止め続けた。

訪れた転機

そんな時間が10年流れ、僕は学生時代から付き合っていた彼女と結婚した。結婚式は親族のみでささやかに行われたが、そこに父親を呼ぶことはなかった。

さらに数年が経ち、娘が生まれた。学生時代、父親への憎悪から「子どもも作らないし結婚もしないで血筋を途絶えさせる」と豪語していたあの頃の自分が今の自分を見たら、どんなふうに思うのだろう。自嘲混じりにそう思うことがある。

けれど、それでも僕は父親に娘を会わせることはしなかった。子どもが生まれたことは何より喜ぶべきことだ。であるなら、孫がいながら死ぬまで孫に合わせない。それが今の僕にできる最適な復讐の形なのではないだろうか。心の奥底には未だ父を憎み続け、生まれた家に帰りたがっている子どもの姿をした自分がいたのだ。そしてコロナ禍がそれを正当化してくれているようにすら思っていた。会わないほうがいい。リスクがあるから、と。

そのコロナ禍も収束に向かう社会風潮が生まれだした2023年1月。僕は未だ生家の喪失の記憶に翻弄され続けていた。あれからもう20年以上が経っているというのに。

そんな僕にカウンセラーは実家に帰ることを提案してきた。今、現実にある生家跡地やその周辺の風景を直接見ることで何かが変わるかもしれない。僕はその提案に乗り、妻や母と相談し、一週間ほど実家に滞在することになった。フリーランスのライターという仕事も幸いして、スケジュールはあっさりと確保できた。

唯一にして最大の懸念は父親の存在だった。子どもの僕は父を恐れている。大人の僕は父を憐れんでいる。「でも、少なくとも今自分が危害を加えられることはないだろう」

僕は僕を説き伏せて、実家に向かった。

「ただいま」

生家の喪失を乗り越えるという命題を背負っていたからだろうか。それとも単純に僕があの頃より大人になっていたからだろうか。生まれ故郷に帰って見たのは、これまでとは違った風景だった。

この帰省の少し前、90歳を超えた母方の祖母が実家で同居を始めていた。大好きだったおばあちゃんがいつも家にいる。そのことは心のうちに眠る幼い僕にとって大きな安心材料だった。

もう一つ変化があった。それは還暦を過ぎた父親が働き始めたことだった。祖父の死を契機に退職してから20年以上経って、父親は再び働くことを通じて社会と繋がり始めた。

恐れていたことはなにも起こらなかった。

20年を経て、僕はようやくこの家に「ただいま」が言えた。

実家に帰った僕がまずしたのは、昔のアルバムを見ることだった。特に生まれてから祖父が存命だった期間の写真をかき集め、順に見ていった。実のところ、大人になってから子どもの頃の写真を見るのはこれが初めてだった。

そこにあったのは、僕がなにより求めていた風景たちだった。

子どもには段差が高すぎた生家の玄関。赤ん坊の頃から昼寝に使っていた長座布団。家族の寝室のじゅうたんのピンク。母の花壇。祖父の畑。大好きだった庭。生い茂る木々と青空、こいのぼり。家とともに喪ってしまったと思っていた日々。

僕は嗚咽しながらアルバムのページをめくっていた。

「懐かしい」「帰りたい」「どうして」

そんな言葉と感情が全身から溢れ出ていた。

翌日、僕は生家の跡地に向かった。

生家跡には親の経営する新しいアパートが建っているが、かつての庭に植わっていた木々の多くはそのまま残っている。雪を踏みしめながらそこに入った。

墓参りのようだな、と思った。

季節ゆえに葉がなく、どこか淋しげなかつての庭の風景は、かつてここにあったものの墓標に思えた。さまざまな思い出が去来した。この木を蹴って雪を落として遊んでたな、とか、この木は昔もっと大きく見えたんだけどな、とか。

その日の夜、またアルバムを見た。

今度は多少涙ぐみはしたが、激しく嗚咽することはなかった。むしろ昼間に庭の跡地に行ったことで、何かの答え合わせをするような、欠けていたものを埋めていくような、不思議な感覚があった。

そうだ。ようやく繋がったのだ。

あの日、生家が取り壊されて切断された僕の時間線は、確かに結び直された。今と昔が地続きであると、ようやく実感できた。

そして続いていく日常

実家に滞在している間、出発前の心配とは裏腹に僕は終始穏やかな気持ちだった。社会と再び繋がりを取り戻した父。いつもどおり楽観とも達観ともつかない不思議な姿勢で日々を回す母。年に数回しか会えなかったのに、今ではすぐ下の部屋にいる祖母。

一番悲観的だったのは、もしかしたら僕だったのかもしれない。

巡礼のような帰省のなか、僕が見たのは粛々と日常を送る家族の姿だった。

そして僕が本当に恐怖を抱いていたのは、記憶の中の父であり、現実の父はもはや脅威ではないと感じることもできた。

だから僕は、今度帰るときは妻と娘も連れて行こうと思った。

今度はみんな連れてくるから。

別れ際、父にそう言った。

その日、20年以上迷子だった子どもの僕は、ようやく家族の待つ家に帰ることができた。

祖父の死に始まり、生家の取り壊し、父親からの虐待、家を出てからの孤独と自分自身の病。まるでいくつもの災害が去った後のようだ。だとすれば今の粛々と流れる日常は、蹂躙された大地にうっすら緑が戻るような、再生の兆しなのだろうか。

時間の流れは不可逆だ。生家も、そこで過ごした日々ももう戻らない。でも今の僕はあの日の続きを生きている。それは僕以外の家族も同じだ。この日常もいつか必ず終わってしまうだろう。生家を喪ったのと同じように、きっと唐突に、理不尽に。

それでも、それまで僕ら家族は、喪失と再生の物語を続けていくのだろう。

文・雨田泰

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