祖父との秘密、私の隠し事

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小さい頃から祖父と祖母の家で育てられたという写真家のまつちよさん。大好きな祖父の病気が見つかり、その死を意識し始めたとき、「自分だけが知っている祖父の姿をみんなに知ってもらいたい」と思ったといいます。まつちよさんがどうしても伝えたかったこととは。


物心がついた頃のことを思い浮かべると、祖父と祖母と暮らした家の記憶がよみがえる。私には父と母、年の離れた兄と姉が2人いるのだけど、母は私がお腹にいるときから、私を自宅から自転車で10分ほどの祖父の家に預けて職場復帰することを決めていたらしい。

「お父さんやお母さんと離れて暮らすのはさみしかったんじゃない?」

小さい頃からそう言われることが多かったけれど、私にとっては祖父と祖母との暮らしは居心地がよかったし、実家のほうがよほど「よその家」という感じがする。私は、祖父が大好きだった。

「農薬飲んで死のうかな」

祖父がそうつぶやいたのは、まだ私が小学校に上がる前、2人で車に乗っていたときのことだと思う。助手席に座っていた私に言うともなく、独り言のようにそう言った。「農薬を飲んで死ぬなんて、すごく苦しい死に方なんじゃないかなぁ」と、私は思った。

それから、祖父は体調が悪いとき、事あるごとに「もう死のうかな」と口癖のように言い、私はそれを口癖として聞き流した。

そして、私はそのことを、誰にも言わなかった。別に、誰かにわざわざ言うほどのことではないと思ったから。そんなことを母や姉が知ったら「そんなこと言わないでよ」と言うに決まっていると思ったし、祖父はそう言われたくないだろうと思っていたから。私はただの一度も、祖父に「長生きしてね」とは言ったことはない。

つい最近になって、私が生まれるずっと前に祖父の兄弟が農薬を飲んで自殺したという話を母から聞いた。

祖父との思い出はたくさんあるけれど、祖父がどんな人かについて、ひとことで説明するのは難しい。

たとえば、祖父はバカみたいに人に好かれる人だった。

近所の人がインターフォンも鳴らさずに家の中に入ってくることなんて日常茶飯事で、祖父もまた、人の中に分け入っていくのが好きな人だった。私が所属していたサッカーのクラブチームの応援に来ては、同級生の母親たちに話しかけて回る。「あんた、誰の親だ?」と祖父の大きな声が聞こえて振り返ると、相手チームの保護者に話しかけていたこともある。祖父はどこに行っても人気者で、町の中でも名物おじいさんだった。私も、祖父が試合を見に来てくれるのはうれしかった。

祖父は、参観日にも来てくれた。

じつのところ、私は、参観日が嫌いだった。参観日に来る母親たちは化粧をしっかりしてきて、先生もどういうわけか背筋をしゃっきりさせて、クラスのみんなも親が来たときだけちゃんとする。そういう空気が嫌いだった。

でも、祖父だけはいつも通りだった。参観日が終わった後に「ちゃんとしなさい」とも言わないし、「よくできてたね」とも言わない。いつも通り家に連れ帰って、いつも通りご飯を食べる。参観日だからと言って特別な日みたいにしないところが好きだった。

私が学校でやんちゃをしてモノを壊し、先生と親から叱られているときも、ただ、「そうかあ」とだけ言った。

私は祖父の、そういうところが好きだった。

それから、祖父は戦後の人にしてはめずらしく家庭的な人だった。料理をしていたし、ミシンを使っていたし、掃除をよくしていた。物心ついたときから祖父は働かずにずっと家にいて家事をしてくれていた。

定年よりも早くに退職して家にいたのは、家の中を走り回ってやんちゃばかりする私を見るに見かねて働きに行けなくなったからで、私の母親とえらい喧嘩になったという話はつい最近知ったことだ。「お前がケガばっかりするから、わしが仕事を辞める羽目になった」と、まるで今起きたことのように怒っていた顔が、まぶたの裏に焼き付いている。

年を重ねるごとに膝の痛みが強くなったのか、掃除のたびに「死にたいなぁ」と言うことが増えた。私はそれを黙って聞いていた。

私たちの関係はずっと大きくは変わらなかった。ただ、一つ大きな節目があったとしたら、祖母が亡くなったことだったかもしれない。

10年ほど前、祖母の体調の変化に、最初に気づいたのは、当時中学1年生の私だった。それでも、祖母は病院に行きたがらない世代だったから、我慢に我慢を重ねて、ようやく病院に行けたのは倒れて入院することになってからだった。それから緊急手術をするも、祖母が家に帰ってくることはなかった。

「あんなに世話してもらっていたのに何もできなかった」

そんな後悔があって、私は祖母の墓に自転車でこっそりと通って、花を毎度供えていた。あるとき、祖父が母に「墓に行くたびに花があるけど、誰が行ってるんだ」と聞いて、私が墓参りに行っていることが知られたみたいで、それからは祖父と一緒に墓参りに行くようになり、今まで以上に、私にいろいろな話をするようになったかもしれない。戸建てにしては小さいなと思っていた家のサイズは、祖母の「そんな大きい家いらんわ」という一声で決まったという話も、そのときに聞かせてもらったことだ。

時は流れて、私は大学生の頃から写真を撮るようになっていた。

社会人になってからも風景写真を撮ることで気分転換をしていたのだけど、姉の子ども、つまり甥っ子が生まれてからは姉に頼まれて人の写真を撮る機会が増えて、撮った写真を祖父にLINEでバンバン送りつけていた。ほかの家族とは要件以外でLINEすることはないけれど、祖父とは他愛もないやりとりをすることが多かった。祖父が送ってくる変なスタンプに、よく笑わせてもらった。

祖父は写真を撮られるのが嫌いな人で、カメラを向けると「わしなんか撮るな!」と怒っていたし、私が撮った写真を送ったときも、良いとか悪いとか、感想のようなことを言ったことがない。だから、孫が写真を撮っているんだなとはわかっていても、それほど興味がないんじゃないかなと思っていた。

そんな祖父が、いきなり「わしを撮れ」と言ってきた。

写真が嫌いだって言ってたのにどうしたんだろう、と思いながらシャッターを切って撮った写真を見せると「わしも老けたな」と言う。「何歳になった?」と聞いたら「87」と答えた。87歳。死が近づきつつあるんだなと思った。

後日、姉から「おじいちゃんはあなたに遺影を撮ってもらいたくて写真を撮ってって言ってるんだよ」と聞いた。

それからというもの、祖父の望むことなら叶えてあげたいと、実家に帰省するたびに祖父の写真を撮るようにしている。写真嫌いの祖父は緊張しているのか、顔をこわばらせていたけれど、写真を撮り始めてから数年経った今は自然に笑うようになった。ここに立って、そこに座って、煙草を吸って、こっちを向いて、と言う孫のわがままに付き合っている、いつも通りの風景を重ねていく。

2023年1月、祖父にガンが見つかった。

看護師の母親から「レントゲンを撮ったら黒い影があるみたい」と電話が来た。そのほかにも、もともと治らない体の欠陥があって、手術をするにも体に負担がかかりすぎるという。いずれにしても、覚悟をしておいたほうがいいと言われた。

祖父はいつもの口癖のように「死にたい」と言った。けれど、その「死にたい」にはいよいよ死ねるという実感を伴った喜びが滲んでいるようにも感じた。

「嫌だ」

自分の心の声に戸惑った。これまでは、それが祖父の望みなら、叶ったほうがいいとも思ってきた。だけど、私は、そのときに初めて「死んでほしくない」と思った。

姉は祖父の気持ちを知らずに、誕生日ごとに「長生きしてね」というメッセージを添えて贈り物を贈っている。だからこそ、私だけは絶対に、言えないと思った。だから、せめて「私の中の祖父」をみんなに知ってほしいと思った。

残しておきたい。そう思った。

昔、祖父とよく近所の川に魚を獲りに行っていた。いろいろな魚を捕まえた記憶があるけれど、ウナギを捕まえた記憶があった。

「昔、あの川でウナギを獲ってさ」と友達に話しても「あんな川にウナギなんていねぇよ」と一蹴される。私にとっては確かな記憶なのだけど、そう言われてみると自信がなくなるくらい、なんというか普通の川だ。

私の記憶違いかなと不安になって、祖父に「俺ら、ウナギ獲ってなかったっけ?」と聞いたことがある。すると、祖父は「おぉ、たくさん獲ったよな」と言って、笑ってくれた。

あの川にウナギがたくさんいたことは、誰も知らない。

これは祖父と私の秘密だ。

語り手・まつちよ 文・佐々木ののか

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