やっぱり、わたしには実家があった。【実家がたり】
実家がたり |

「あなたの実家について教えてください」と尋ねられたら、どんなことを思い浮かべ、答えますか?
連載企画「実家がたり」では、さまざまな人に「実家」をテーマにしたエッセイを書いてもらいます。第1回は、エッセイスト・ライターの中前結花さんです。
夢の国からほど近く
「ゆかちゃん、ジャスコに行こっか」
それは、幼いわたしにとってどんな言葉よりもうれしい、きらきらと宝石みたいな誘い文句だった。
ひとり娘だったわたしと母は、月に1度、今は無き総合スーパーに二人して跳ねるように出かけた。
お気に入りのラーメンを食べて、書店で1冊だけ本を選ぶ。マリオカートをしてソフトクリームを食べて、洋服をくるくると見てまわり、夕食の材料を買って帰るのだ。
「早くジャスコに行きたいなあ」
「お誕生日はジャスコにしてね」
最早、わたしにとってはちょっと近場の夢の国だった。
お正月、大勢の親戚が集まった席で、
「ゆかちゃんは何が好きなの?」
と聞かれたとき、
「ジャスコとお母さん」
と答えたというのだから、母も父もずいぶん恥ずかしかったろう。
だけど、「ジャスコの近くに住んでいる」ということは幼いわたしの自慢だったのだ。
帰るとき、必ず母が言ってくれる
「また来ようねえ」
の言葉がうれしくて、夢の国から出るときも、やっぱりわたしは跳ねるようにして母の手を取り来た道を帰るのだった。
家から通える大好きな場所。
最後にジャスコに行ったのは、いつのことだっただろうか。
実家がなくなった
そんな、兵庫県の片田舎から東京に出てきてもう12年になった。
夢の国のジャスコは立派なイオンになって、そのあとはよく知らない。
それと言うのも、この12年間。
わたしはひとり、どこを「実家」と呼んでいいのやらよくわからない日々を過ごしていたのだった。
それは大学を卒業し、東京で就職をすると決めたときのこと。
父はやや不機嫌ではあったものの、母が上京に反対する素振りを見せることは1度もなかった。それどころか、日が近づくほどに心細くなるわたしに、
「きっと東京も一人暮らしも楽しいよ」
「お母さんうらやましいわあ〜」
と励まして見せたほどだ。洗濯機を回したこともないひとり娘が、「東京で仕事をする」と言い出したのだ。もちろん気が気ではなかったはずだけれど、わたしを不安にさせまいと気丈に振る舞ってくれるような人だった。
しかし、母はこっそりと決心をしていた。
住み慣れた兵庫県の一軒家から、所縁もない奈良県のマンションへと移住し、夫婦で住み込みの「管理人」をすることに決めてしまったのだ。
後に聞けばそれは、自営業を畳んで暇をしていた父を思いやっての選択でもあり、また、娘のわたしが「ただいま!」と帰ってこない広い家はあまりにもさみしい……という母の気を紛らわすための引っ越しでもあったという。
「この家はどうするの?」
そんな計画に驚いたわたしはそう尋ねる。
「いつか戻るから、このまま置いておこうと思うてるねん」
そんなわけで、両親、わたし、家族で過ごした家……はここで離れ離れとなってしまった。
それはなんだか、わが家の「全盛期」が終わったようで、どこか胸の奥がシンとさみしい旅立ちだった。
***
ジャスコに近いあの家には、小学3年生から住んでいた。
建築士さんと一緒に母があれこれと書き込みを加えて完成した、母の理想が詰まった家だ。
引っ越す直前には、「下見」だと言って母と二人で訪れたことをよく覚えている。
ひと通り床を水拭きして、出来上がったばかりの天井を見上げながら並んでもぐもぐとおむすびを食べた。
「ここに住むの?」
わたしがそう尋ねると、
「そうよ、毎日ここに帰ってくるねんよ。楽しみやねえ」
母はジャスコのときと同じように、とても幸せそうに笑っていた。
新しい木のいい匂いがする。そこに西日が差して、拭いたばかりの床をとても明るく照らしていた。
三角の屋根に、淡いグレーのタイルの外壁。つるりとしたフローリングが広がるリビング。庭は少しこじんまりとしていたけれど、2階まで吹き抜けた玄関が気持ちよく、何より広々としたカウンターキッチンが母の自慢だった。
わたしはそのカウンターで、明るいランプに照らされながら「今日はね、」「あの先輩がね、」と来る日も来る日も母に話しかけ続けることになる。
母は手際よく料理をしながら、「うん、うん」と本当によく耳を傾けてくれた。
そんな、夢の国からほど近い、思い出でいっぱいの家だったのだ。
それなのに。そんな家を、わたしたち家族は長らくひとりぼっちにしてしまうこととなった。
***
上京してしばらくは、両親が移り住んだ奈良県をよく訪ねた。
けれどそれは、わたしの思う「実家に帰る」という感覚とはやはりちょっとちがっていた。
母には「ただいま」と言って甘えたけれど、そこは、「おじゃまします」と靴を脱ぎ、お箸の場所さえよくわからないところだ。慣れない土地は気も遣う。
ちょうど当時、流行っていた曲に「目を閉じたままじゃ、上手くシャワーも使えない」というような歌詞があって、「まったく、本当だなあ」と心から納得をしてしまったことを、よく思い出す。
東京の新しい部屋も、奈良の両親の部屋も。
わたしにとっては蛇口をどちらにひねればいいのかもわからない、まだまだ気の許せないところで、それはとても新鮮でおもしろいけれど、「すっかり気が休まる」ということはなかった。
だからこそ、いつかはあのキッチンカウンターのある兵庫県の家でお正月を迎えたりする日がまた来るだろう。家族3人でそうしたいなあ、と当然訪れる未来のように、わたしはぼんやりと愛おしく思い描いていたのだった。
けれども——。
家族3人と、あの家がそろうことはついぞ無かったのである。
「また行こうね」
奈良という土地に移り住んで、わずか3年のことだった。
母に病が見つかり、そしてそのまま病院暮らしが始まり、あっけなくこの世を去ってしまったのだ。
母は時折、ベッドの上で
「またジャスコに行こうね」
と漏らしていた。
けれどそんな願いも、「いつかあの家に戻る」という夫婦の予定も、叶うことはなかった。
夢の国への扉はパタリとそこで閉じ、跡形もなく消えてしまったのだ。
父はマンションの住民たちの「続けてほしい」という署名のおかげで、なんとかひとりで管理人を続けているけれど、すっかりあの家に戻るきっかけを失ってしまう。それに、
「ふたりではさみしすぎる」
と置いてきた家に、ひとりで戻るのはあまりに気の毒にも思えた。
わたしはと言えば、そんな父のもとへ立ち寄る機会さえめっきり減ってしまう。
「お母さんがいたらなあ」
と二人してこぼすのは何とも言えず虚しい。
父との時間は、なんだか「母がいなくなったこと」を再認識させられるような残酷さがあり、それに耐えられる器をわたしはまだまだ持ち合わせていなかったのだ。
こうして、父も、わたしも、あの家も、いよいよひとりぼっちになってしまった。わたしの「実家」とは、いよいよどこにあるのか本当にわからなくなってしまったのだった。
***
そして昨年のこと。父はひとつの決意をした。
「兵庫県の家を手放そうと思うてるんや」
そう電話先でつぶやいた父は、もう何もかもを受け入れているような様子だった。思い出を真空パックにしたようなあの家を手放すという。
「売っちゃうの?」
「誰か買い手が決まったら、そうなるなあ」
わたしは、母に話し続けたあのキッチンカウンターと、照らしていたランプのあたたかさを思い出していた。
いつかは帰る、とばかり思っていたあの家が、誰かの手に渡ってしまう。もう二度と足を踏み入れることのできない場所になってしまうのだ。
それは、母がいない今、わたしをよく知る家族をもうひとり失うような心地がした。
「お父さんは平気なの?」
つい口を突いて出そうになるその言葉を、ごくりと胸の奥に押し返す。
父だって、もちろん同じ気持ちのはずだ。
「責めてはいけない」
そう思えば思うほど、さみしさや苦しさの行き場がなくて、なんだか途方に暮れてしまう。そして、
「ああ、わたしの実家は本当になくなるのだ」
と改めてそんなふうに思うのだった。
「家」は明かりを灯す場所
「カウンターは取り外せないけれど、そのランプをもらうのはどうだろう?」
そう言ってくれたのは、夫だった。
今年、わたしにも「ただいま」「おかえり」と言い合える人ができたのだ。
もうすぐ手放してしまう家から、あのあたたかなランプを引き取る。それは、気を抜くとふっと沈んでしまいそうになるわたしの胸の内をポッと照らしてくれるようなアイデアだった。
思えば、あのランプだって長らく何も照らすことができずにいるのだ。
「家」と辞書で引けば、「人の住むための建物」とある。
数ヶ月に1度父が掃除に訪れるだけのあの場所。部屋中のランプたちは、その明かりを灯すことなく、シンと「いつか来る日」を待って眠り続けている。
誰も住むことなく12年を迎えたあの場所は、もはや「家」ではないのかもしれない、そんなことさえふと思う。
わたしたちには、その間にもわたしたちの暮らしがあったけれど、あの家にしてみればどうだろうか。
静まり返っていただけの12年間。それはどれだけさみしかったろう。
「あの家にも明かりを灯してあげたい」
はじめてそんなふうに思うようになった。
やっぱり「家」とはそうあるべきだと気づけたのだ。
***
いよいよ家の内見が始まった。
気に入って何度か見に来てくれている、すこし年配のご夫婦がいるそうで、父は、
「あの人たちならいいなあ」
と漏らしていた。心からそう思っているのだと思う。
そして、薪の火を譲ってもらうようにして、わたしはダイニングのランプを東京へと持ち帰ってきた。
あの頃、わたしと母とカウンターを照らしていたように、「ただいま」と言えるようになった新しい場所で、今もう一度わたしをあたたかに包んでいる。
やっぱり、わたしには実家があった。
母とおむすびを食べたあの日から、わたしを育てやさしく迎え入れてくれたのは、いつも「あの家」だった。
夢の国からほど近い、思い出の詰まった家。
そこはこの先、「誰かの家」になってしまうかもしれない。
けれど、「おかえり」「ただいま」がやさしく響くなら、やっぱり家にはそれがいちばんいいと思うのだ。
そして、とぼとぼと歩く疲れた足元も、跳ねるように楽しく戻る誰かのことも。
どうか、あたたかな明かりでそっと包んで迎え入れてくれる「家」であってほしい。
三角の屋根のついた、わたしたちの住んだあの家。
じゃあね。ありがとう。
文:中前結花 イラスト:ぬー