父の道をたどる

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「ここぞという時に頑張ればそれでいい。頑張りすぎず、適当にね」

桜がぽつぽつと芽吹き始めた頃、別れ際に父はそう言った。新生活に向けて漠然とした不安を感じているわたしに、決して「頑張れ」とは言わないところが父らしい。引越しがひと段落し、手伝いに来てくれていた父が「見送りはいいから」と帰っていく背中を見て、段ボールに溢れた馴染みのない部屋で、ひとりぽつんと涙を流したのはここだけの話。

わたしはこの春から新社会人になった。環境も、人も、立場も、自身を取り巻くすべてが新しいという生活は、想像以上に大変で、それは働くことや生きていくことへのずっしりとした重みを突然背負わされたような日々だ。心の灯をともしながら、働いてお金を稼ぎ、生計を立てていくということはなまやさしいものではないようだ。

そんななかで、ふと思い出したことがある。それは、母が昔わたしに教えてくれたこと。

「お父さんはね、家ではあえて仕事の話をしないのよ。『帰ってきたら仕事のことは忘れたいから』って」

たしかに、父は昔から仕事を家に持ち込まない人だった。どんな仕事をしているのかはざっくりとしか知らないし、父の上司や後輩がどんな人かも知らない。職場や同僚の愚痴を聞いたこともなければ、呑んで帰ってくるということも基本的にはない。休みの日は家族をお出かけへ連れて行ってくれたし、わたしたち子どもが部活を始めてからは、たとえ休日でも嫌な顔ひとつせず早朝から送り迎えをしてくれた。

今なら分かる。これがどれだけすごいことか。

新入社員として働き始めて数カ月。わたしは毎日のように友人や同期と連絡を取り合い、互いの近況報告をする。週末には夜通し電話をしたりもした。そうすることでわたしは、自分を保っていたのだと思う。

父は、どこで仕事へのストレスを発散していたのだろう。父にとっての日々の楽しみは何だったのだろう。

自分がこれから先さまざまなことを経験していく中で、改めて父の偉大さを感じ、その度に感謝と悔しさを感じるのかと思うと、ほんの少し楽しみで、ほんの少し怖い。

いつだって「やりたいことをやればいい」と好きなように生きさせてくれた父。その優しさに甘え、迷惑もたくさんかけてきてしまった。わたしは親孝行な娘ではないし、まだおんぶにだっこだけれど、いつか父にも、好きなように生きてもらいたい。それを叶えさせてあげられる娘になりたい。

お父さん、一生かかっても返しきれない程の恩をありがとう。

文・凪

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