ママ、生きてケンカしようね
母のことが憎らしくてたまらなかった過去
母は言葉を知らない。というより、感情をあらわすボキャブラリーが少ない。娘が傷つくようなことを平気で口にするし、その上、暴力をふるう。子どもの頃はそんな母親のことが憎らしくてたまらなかった。
19歳のとき、母とささいなことでけんかして、半年ほど口をきかなかったことがある。今となっては”自分は何に対してあれほど腹を立てていたのだろう”と思うが、当時は本気で母と絶縁してやろうとさえ考えていた。
しかし、そうはしなかった。母が更新しているSNSの投稿を見たからである。
“娘よ、いつまで口を聞かないつもり?昔はあれだけわたしのあとをついてまわっていたのに……”
上記の文章とともに、幼いわたしの写真が添えられていた。なんだか急に心のなかで申し訳なさがわき起こってきて、母に自分から声をかけ、仲直りしたのである。
じわじわと母を侵略した病魔
母の異変に気づいたのは、ひさびさに実家へ帰ったときのことだった。
当時わたしは会社の寮に入っていたこともあり、なかなか家に帰ることができなかった。「おかえり」と言う母の姿は、一見なんの変哲もない。まるで妊婦さんのように、ぼこりと大きくなったおなか以外は。
そのおなかをわたしは楽観的に見ることができなかった。母の胎は不自然で不吉なふくらみかたをしていたからである。丸々と太ったスイカが2玉ほど入っているように見えた。
「ねぇ、どうしたの?そのおなか……」と遠慮がちに聞くと、母は何かに気づいているようなまなざしでこちらを見ながら「なんだろうね」と言うのである。それから何度か同じような会話をくり返した。
ついにしびれを切らしたある日、わたしは母に強い口調で言った。「ママ、病院に行こう。わたしもついていくから」。やっと母がうなずいた頃には、お腹のふくらみも限界に達していたのである。
数日後、母は精密検査を受けに病院へ行った。残念ながら、わたしは仕事があったため、母についていくことができなかった。
検査を終えた母から、たったひと言連絡が来た。
「結果を聞くのが怖い」
わたしがどれだけ不憫に思っていても、母の気持ちを完全には理解できない。無責任だと思ったが「大丈夫だよ、わたしがついてるから」とメッセージを送った。前向きに返信したものの、あまりよくない結果だろうと予測していたのである。
後日、母と叔父とわたしとで病院に行った。嫌な予感は的中する。
「卵巣がんです、ステージは3で、このまま放っておくと命に関わります」と女性のドクターがハキハキとした口調で言った。
ショッキングな結果だったが、ある程度覚悟していたため冷静でいられた。それよりつらいのはわたしではなく、母親のはず。ドクターの話にあいづちを打つ母親の横顔を見ながら、この先何があっても母のことを支えようと決意した。
実は、母の闘病生活はこれで2回目だ。過去にも「血球貧食症候群」と呼ばれる難病をわずらい、克服している。今回もきっと大丈夫だよ、と母に声をかける。すると母は「そうだよね。ママは不死身だから」と笑った。
握りしめた携帯が鳴らないようにと祈った
母の体をむしばむがんを卵巣ごと除去することになった。
「卵巣を取りのぞくといっても、がんの進行具合によってはすべて取りのぞけないことがある」とドクターに言われた。それでもわたしは母が助からないとはまったく思わなかったのを覚えている。
手術当日、車椅子に乗せられた母がふり返り笑った。無理して笑顔をつくっていたが、あきらかに怯えていた。わたしは身につけていたブレスレットを、母の手首につけかえる。「いいよ、いらない」と母は言ったが、「お守りにして」とわたしが言うとブレスレットをつけたまま手術室へ入っていった。
手術前、看護師さんから携帯電話を受け取った。
「万が一のことがあった場合、そちらの携帯電話に電話させていただきます。何事もなく手術が終わればその携帯電話は鳴りません」
携帯電話を首から下げ、叔父と待合室に入る。しばらく2人で話しこんでいたが、昼食を食べていなかったため食堂に行くことにした。
数あるメニューの中から、生姜焼き定食を選ぶ。しばらくして席に運ばれてきた生姜焼き定食は、びっくりするくらい味がしなかった。携帯電話が鳴りませんように。ひたすら祈り、黙々と食べた。
日が暮れかけた頃、母の手術は無事に終わった。術後に、除去した母の卵巣を見せてもらったが、両手でかかえてもこぼれそうなほど大きく膨張していた。「本来、卵巣というのは握りこぶしくらいの大きさなんです」とドクターから教えてもらい、目を丸くした。
大きながんを取り除いた母の体はちぢんだかのように瘦せほそり、あまりにも心細くていたたまれない。それでも、とにかく無事に手術が終わって安堵した。
それからの母。そして、いま伝えたいこと
それから2年後、母はがんを再発することなく生きている。ドクターや親戚は「奇跡が起こった」と言っていたが、なにより驚いていたのは本人だ。
「正直、今回はもうダメだと思っていたの。でもね、りいちゃんが毎日励ましてくれたおかげで頑張れたよ」と母は言う。
思春期の頃は母のことが大嫌いだったし、たくさんケンカもした。大人になった今でも、母とときどき口ゲンカをする。
しかし、ケンカをすることも、笑いあうことも生きているからこそ、だ。
母に手紙など気恥ずかしくて一生書かないと思うが、もしメッセージを送る機会があったら一文だけ書こうと決めている。
「ママ、生きてケンカしようね」
文・神埼寧