「なんで私はガイコク人なん」 いじめられたその日、母に言ってしまった言葉

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「なんで私はガイコク人なん――」その言葉を言ってしまったときのことが忘れられない、という話。

私の家が<ふつう>じゃないことを知ったのは、たぶんかなり幼いときだった。

家に遊びにきた幼稚園の友達が、私の親や祖父が中国語で話すのを不思議そうに見ていたからだった。自分にとっての日常が、他人にとって珍しいもの、奇妙なものに映っていることを知った瞬間だった。

小学校にあがってしばらくして、世界にはいろんな国があることを知った。そしてなぜか、そのいくつかの国は差別の対象になることも知った。いろいろな国と文化があるのに、なぜ中国がその対象なのかは分からなかった。

二つ上の兄は、自分の生い立ちと上手につきあっていた。隠していたわけじゃないと思うけど、兄の周囲で兄のことを「中国にルーツがある」と知っていた人はほとんどいない。

一方で私は、境遇と上手に付き合う術を、ずっと探していた。

クラスメイトとは仲良くなる前に、中国人のクオーターであることを伝えることにしていた。友人が自分の親に会う前に、念を押すこともあった。

きっと、奇妙なものを見るような目で、親を見られた記憶が忘れられなかったのだと思う。先回りして、自分が傷つかないように過ごしていた。そしてありがたいことに私のルーツについて否定的になる友達は、誰もいなかった。

そんなときだった。小学4年生の下校途中。一緒に帰っていた友達に手を振り、一人歩いているときだった。

「おい、中国人」

見ると、隣の施設のこどもたち。私の住む団地の隣には特別な事情のある親子が暮らす母子寮という施設があり、そこに暮らすこどもたちは集団下校する決まりがあった。彼らが、私を見て笑っていた。

「おまえ、中国人なんやろ」

言葉を発していたのは、学年が一つ上のM君という男の子だった。やんちゃで有名だったので名前だけは知っていたけど、喋ったこともない相手だった。

びっくりして、立ち止まってしまった。足が動かなかった。その男の子の周りには、私の同級生もいた。みんなが笑っていた。

だから何、と言える強さも、頭の回転もなかった。生まれて初めて、自分の出生に明らかな差別を感じた瞬間だった。びっくりして、一言も発しないまま私は家まで逃げ帰った。

「待てや、中国人!」

「中国人が逃げた!」

後ろから聞こえた笑い声。私がそのとき感じたのは、恐怖だった。

泣くこともできなかった。家について、子どもながらに「このまま放置したらダメな気がする」とは感じていた。母はいつもと変わりなく和室のタンスに畳んだ服をしまったりなんかしていて、どう切り出していいかが分からなかった。

「お母さん」

かなり言い淀んでいたと思う。けど、はっきり言ってしまった。

「なんで私はガイコク人なん」

ガイコク、と口にした瞬間から、言ってはいけない言葉を言っているという自覚があった。言葉にしながら、母が傷ついていくのが手に取るようにわかった。自分がされたことを、次は自分が母にしているのだと思った。

「誰に言われた?」

母は私よりずっと強かった。私がいじめられて帰ってきたことをすぐに理解したようだった。もしかすると、いつかそんな日が来るとずっと感じていたのかもしれない。私は母に話したけど、上手に話せているかより、言葉が伝わっているかが不安だった。そのころの私は、すでに母より日本語がうまかったから。

母は私の話をしっかり聞いてくれ、すぐに私を連れて母子寮に向かった。母子寮に足を踏み入れたのは初めてだったけど、思えば母も初めてだったはずだ。エントランスで寮長というおばさんが出てきて、私たちをスタッフルームに連れて行った。母はつたない日本語で、私がうけたことを話した。

寮のスタッフの人に呼ばれ、M君が入ってきた。チクったな、という顔でふてくされていた。しばらくして、M君のお母さんもやってきて、黙ってM君のそばに来て、思い切りM君をぶった(今だと完全にアウトなんだと思う)。そこから、M君は怒鳴られながらめちゃくちゃ怒られていた。M君が泣き、ごめんなさいと叫ぶのを、私と母は対岸の火事のようにぽかんと見ていた。M君のお母さんとM君にひとしきり謝られて、私と母は寮を出た。そんな記憶。

***

母はその後、何を思ったのかは分からないけど、急に日本語を学び始め、日本語検定を受けたり毎週勉強会にでかけたりするようになった。すごいもので、数ヵ月後には勉強会の先生側になって、今では日本の小学校で講師をしている。中国から日本に来た子どもたちに日本語を教え、授業についていけるようにする仕事なのだそうだ。

そのあとしばらくして、私の祖母、つまり母の母親から、戦争で満州に行ったことを詳しく聞いた。なんとなく知ってはいたけど、避けていた話だった。詳しい内容は割愛するけど、まさに歴史の教科書やNHKの戦争特集で見る、あの女性特有の戦争の話。母は辛すぎて聞けないと席を外していた。ロシア軍から逃げ、籠城し、そのあと中国人の祖父に出会い結婚し、母が生まれたのだそうだ。

中国人である祖父はめちゃくちゃいい人で、私も大好きだった。中国は、私の祖母を守ってくれた祖父の国。そう理解した。だから、私は中国にも中国人のことも好きなまま大人になることができたんだと思う。そして、みんながそうじゃないことも分かっている。

あの日のことを話すこともある。「お母さんさ、あのとき全然日本語喋れんかったやん。よく乗り込んだなって思うわー」と、完璧な関西弁で笑っているが、私はまだ、母に言ってしまった言葉を謝れないでいる。時間が経った今だからこそ伝えられるかと思ったけど、やっぱりずっと言えないみたいです。傷つけてごめん。私は、最低なことを言いました。ずっと申し訳ないと思いながらも、それでもあの時一緒に戦ってくれたことを、うやむやにしないで向き合ってくれたことを私はこの先もずっと覚えているのだと思う。

文・山本莉会

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