「みにくいあひるの子」だった私。41歳高齢出産を経て、改めて母に伝えたかったこと

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真紅のルージュに、くっきりした目鼻立ち。小粒でセンスの良いピアスに、上品な真珠のネックレス。

パキッと艶やかな服を身にまとい、颯爽と授業参観に登場する母は、いつの日も目立つ存在だった。クラスメイトたちは、母を見るなり「みくちゃんのお母さん、すごい美人だね!本当にお母さんなの?」と目を丸くした。母の美貌が褒められるたびに、私も鼻高々だった。

ただ、美人の母には少なからず欠点もあった。とにかくプライドが高い母は、時折つっけんどんな発言を私に浴びせるときがあった。

たとえば、私の容姿について。当時の私は父親似で目が細く、大きな目の母とは似ても似つかなかった。私はいつも母から「あんたは父親似。私の顔の系統ではないよね」と、突っぱねられていたのだ。

決して、美形とはいえない私の容姿。母は目の細い私を、自分の娘として受け入れてくれないのだろうか。母にとって「醜いあひるの子」なのだろうか。それとも、容姿うんぬんの前に私が嫌いなのだろうか。母に突っぱねられるたび、心にグサグサと槍を刺されるような感覚をおぼえた。

そして、母はいつも気難しい顔でカリカリと怒りっぽく、正直苦手と感じるときもあった。怒るとさらに怖かった。一度キレると手がつけられなくなるほど吠えるのだ。突然バケツ一杯の水を頭から勢いよくかけ、頭ごなしに罵声を浴びせることも。門限6時を超えると、家の前でしかめっ面で仁王立ち。高校受験に落ちた日には、1カ月もの間、口すら聞いてもらえなかった。

本当は、母には優しくしてもらいたかった。試験に落ちたときには「受験勉強、あんなにがんばったのにね」と声をかけてもらいたかった。でも、プライドの高い母からすれば受験で失敗した私が許せなかったのだろう。

なかには「美容院に行けというのに行かない」という訳のわからない理由でキレることもあった。母に反発しようものなら、それ以上に怒りが収まらなくなり収集がつかなくなってしまう。母が怒り出したときは、私は無言でそれを受け止めるしかなかった。

「何で怒られているのかわからないまま怒られる」という感覚に慣れていくと、やがて親の顔色をうかがいながら過ごすようになる。そのうち、自分がやりたいこと、好きなものを自然と選べなくなっていった。親に怒られないためには何を選べば良いのだろうと考えるようになっていったのだ。私にとって母はよっぽど怖く、気をつかわなければならない存在だったのだろう。

そんな母も、今や信じられないほど穏やかになった。母にあの頃の思いを聞くと「子ども3人を1人で育てなければならなかったから必死だったの」と遠い目をして答える。育児ノイローゼっぽい時期もあったそうだ。

あの頃、転勤族の我が家は、2〜3年に1度引っ越していた。慣れない土地に突然放り出され、親戚も親も誰もいない場所に移り住む。そして、それを2〜3年のスパンで繰り返す。父は父で、残業と酒飲みでほぼ家におらず。子どもに熱があっても、父は平気で飲みに出かけてしまう。

「誰にも頼れないからこそ、自分だけは誰よりも子どもたちを心配して、大切に思って育てよう」と心に決めたものの、常に不安が付きまとう日々。気がつけば、自然とカリカリと怒りっぽくなってしまったのだとか。その話を聞いてから、私は母を少しずつ受け入れられるようになった。

そして、あれから何年か経ち、私は41歳で子どもを出産した。

産まれたばかりの娘は、ふわふわしたほっぺでとにかく可愛くて仕方がない。ただ、娘のギャン泣きがはじまると、どんなにあやしても思うようにいかず、もどかしいと感じる時も多々ある。子育てに必死になり、ついつい子どもに当たってしまう親の気持ちも少し理解できるようになった。

里帰り中の今、母は穏やかな瞳で「かわいい私の天使ちゃん」と、よく娘に話しかけて可愛がっている。ただ、なぜか母は娘と目が合うと「ブスは愛敬が大事だから、泣くんじゃないよ。いつも笑ってなさいね」と、これまた突っぱねる。ついさっきまで「天使ちゃん」と呼んでいたのに。

その時に、ふと思った。もしかしたら、母は照れ隠しで素直に子どもを褒められない人なのかもしれないと。母は、里帰り中の私のためにいろいろと身の回りのお世話もしてくれた。妊娠糖尿病で長期入院したときも、母は2〜3日に1度必ず洗濯物や着替えを病院に持ってきてくれた。しかし、「大丈夫?」とか「あなたが心配」だとか耳障りのいい台詞は一切言わなかった。

母は、口では何も言わないが、行動で娘を助け、守る人なのだ。この歳になって、ようやく母のことを少し理解できた気がする。きっと、私は決して母に嫌われていた訳じゃない。きちんと、母の娘として愛されていたんだ。ただ、不器用で照れ屋だったから子どもに対して「可愛いね」の一言が言えない人だったのではないだろうか、と。

それでもあの頃は、母に好かれたいし褒められたいと願ったし、娘に声をかけるように「かわいいね」とか「天使だよ」とか言われたかった。ああ愛されているなって、確認したかったよ。母さん。今だから言えるけど。

そうは言うものの、私も娘に対して、「可愛いね」とか「天使みたい」だとか、果たして言えるだろうか。あの頃は親になんで言ってもらえないんだろうと思っていたけど、娘を抱っこして目が合うと照れ臭くて「天使」だとか「可愛い」などといった台詞が言えずにいる。きっと、あの頃の母もそうだったのだろう。

母は、最近になって過去のさまざまなエピソードを少しずつ教えてくれるようになった。里帰り中の私に、母が想いを伝えられるのはこれが最後の機会だと思ったのかもしれない。先日は、私のお宮参りのときの写真を見せ「この衣装はね、母さんが1枚の布から仕立てて作り上げたのよ。産後のしんどいときに、我ながらよく頑張って作ったと思うわ」と言ってケラケラと笑った。昔の私の話をするとき、母は本当に嬉しそうに話す。

きっと、私も子育てが進むにつれて母の気持ちが少しずつわかっていくのだろう。あの頃の母みたいに育児が思い通りにならなくてイライラしたり、心配したり、不安を感じたりしながら、少しずつ理解していくのではないだろうか。

ああ、子育てってこんなに大変だったんだ。大変だったんだねって。母よ、1人で不安を抱え込ませてごめんねって。これまで弱音を一切吐かずに、強くて美しい姿だけをずっと私たちに見せ続けてきた母。あなたのように強くて一生懸命な母に、私もなれたら良いなと思っている。

文・みくまゆたん

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