助けてくれない母を憎んでいた 「当たり前」は人の心を殺す

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あまり、母の記憶がない。

今も元気に父と弟と3人で暮らしている母。でも、ほとんどと言っていいほど母との思い出がない。覚えていることと言えば、私が5歳のときに妹の手を引き家から出て行こうとしている母の背中ぐらい。

当時は新潟の、海の近くの家に住んでいた。冬は雪深くて暗かった。夏は……何をしていただろう。冬のことをよく覚えているのは、父に怒られて妹や弟と一緒に雪が降る中、何度か外に締め出されたからだ。靴も履かせてもらえず、雪が解けて靴下が重くなっていく。このまま足が凍ってしまうんじゃないか、と怯えはじめたころに玄関の戸が空き、祖母が顔をのぞかせる。

「あんたが悪いんよ。だから外にいるの。わかる?」

「お父さんに謝ってきなさい」

何が悪かったのか、何が父の逆鱗に触れたのか。父は機嫌が悪いと些細なことでよく激昂した。雪で濡れた体のまま、父の前で土下座をする。冷たくて怖くて、でも眠たくて、頭を下げながら眠りそうになって殴られた。

父も怖かったけれど、祖母も怖かった。祖母が何か一言言えば、父は子どもたちに向かって怒り出すから。私はずっとおばあちゃん子だと思っていたけれど、結局は怒られないように媚びていただけなのかもしれない。 そんなふうに、父と祖母のことはよく覚えているのにやっぱり母のことは思い出せない。私や妹や弟が怒られたり、殴られたりしているのを見ても助けてくれたことはなかった。かばってくれることなんて当然なかった。どこにいたっけ? と姿さえも記憶にない。だから、子どものころはなんとなく「お母さんは私たちのことが嫌いなんだなあ」と思っていた。怒ったり殴ったりする父や祖母のことは怖いと思っても嫌いにはならなかった。なのに、母のことは嫌いだった、気がする。

嫁と姑の争いでは済まされないやりとり

大人になってから、そんな母のことが少しずつ理解できるようになってきた。助けてくれなかったんじゃなくて、助けられなかったんだなあ、と。

祖母から受け取るだけだった母の情報を辿り直すと、母の状況に納得ができた。

お見合いで25歳のときに結婚して、父は祖母と2人だけの家族だったから自然と同居する流れになった。結婚を機に母は幼稚園の先生をやめて専業主婦になったけど、それも名ばかり。台所に立っているのは祖母のほうが多かった。お正月のおせち料理はいつも豪勢だったけど、祖母の独壇場だった。

ほかにも、母はいつも古い服を着ていたなあ、とか、子どもたちの学校の行事には祖母ばかりが来ていたなあ、とか。祖母の口癖は「あなたのお母さんは外に出すのは恥ずかしい人だから」だったなあ、とか。

じゃあ、どうして結婚したんだろう? と思っていたら祖母は私に向かって「あなたができたから仕方なく」と言った。なるほど。祖母は気位の高い人だったから、いろいろ許せなかったんだろう。そう、いろいろと。

今なら母の状況がどういうものだったのか、とかいうことが痛いほどに理解できる。でも、恥ずかしながら、つい最近、それなりに大人になるまで全く気がつかなかった。

最初に「何かおかしいな」と気がついたのは私が大学生のころ。母が体調を崩し、臥せっていることが増えた。けだるそうで起き上がることができない。そんな母を見て祖母は「怠け病だ」と言った。怠け病ってなんだ、聞いたことがないな。

さすがに父はおかしいと思ったのだろう。祖母の反対を押し切って病院に行くように命じた。その時の母はひとりで外出できるような健康状態じゃなかったので、妹と私が交代で付き添って。これも父は私と妹に「命じた」だけだ。

でも、母の診断はなかなか下りなかった。原因不明。医師からの診断を伝えるたびに祖母は勝ち誇ったように言った。「だから言ったでしょう、怠け病だって」 いつもなら、そこで母も折れるところだ。「もう病院に行かなくていい」と。でも、母自身が辛かったのだろう。嫌味を言われながらも病院から病院へ、紹介状を持って診察を受けに行き続けた。それは正解だったと思う。ほうっておいて改善するような状態ではなかった。

姑は嫁を憎むのが当たり前だったのか

いくつかの病院で診察を受ける中で、病名として候補に挙がったのが膠原病だった。難病と言われている病気だそうで、その話を病院で聞いたときは漠然とどうしよう、帰りの電車の中で母と揃って暗澹とした気持ちになったのを覚えている。

とは言え、さすがに祖母からも労りの言葉が出るだろう、と無意識のうちに少し期待していた。病院でのことを報告すると祖母は不機嫌そうに顔をしかめた。

「死ぬまで迷惑をかけるんやね」

なにかもっと、こう、あるんじゃないか。母がどういう言葉をかけてほしかったのかは分からないし、そのときの母はもう本当に心身共にただ生きているのが精いっぱい、という状態だった。

この人はおかしい、と思いつつ、私も何も祖母に言うことができず、口を噤んでしまった。祖母を罵ればよかったのか、母を庇えばよかったのか。冷静にそれは違うでしょう、と言えばよかった。これは圧倒的な悪意なのだと気がついたら何も言えなかった。

その後、診察を重ねる中で母は膠原病ではなくバセドウ病だということが確定した。薬を飲めば少しずつ改善していくだろうという話に心底ホッとしたのを覚えている。私たち子どももよかったね、と胸をなで下ろした。 祖母はというと、嬉しそうな顔も、安心した顔もしなかった。「その病気はうつらないんでしょうね? 孫たちに遺伝したりするんじゃないの?」。孫たちを心配したわけじゃないだろう、ということは容易に想像がついた。

母の優しい仕返し

母が薬で回復していく一方で、祖母が少しずつ弱っていった。「体がだるいから」と言って寝ていることが増え、ベッドから起き上がることは減り、家族のことも誰が誰だか分からなくなって、やがて寝たきりになった。

そんな祖母の世話を全て請け負ったのは母だった。家族の前でも良い子ぶりっこをしてしまいがちな私は申し訳程度に「手伝おうか」と言った。母が「若い女の子が今、わざわざすることじゃない」と言ってくれたときはホッとしてしまった。本当は私もちっとも手伝いたくなかったから。こんな状態になっているのは因果応報じゃないのか。

血のつながっている孫の私がそんな気持ちだったのに、さんざんこれまで嫌味を言われ、時には暴力を振るわれることもあった母がよくできるものだと思って聞いたことがある。どうして介護ができるのか、と。

すると母は「仕返しかな」と即答した。

そういえば、祖母は元気なころによく言っていた。「寝たきりになってもあんたの世話になるのだけは嫌。ほうっておいて。勝手に死ぬから」。でも人は、勝手に死ぬなんてことはなかなかできない。

「大嫌いだった嫁の私に世話を焼かれるのは嫌だろうなあ、と思って。甲斐甲斐しく世話をすればするほど」

自宅での介護は、祖母が脳梗塞で病院に運ばれるまでの2年間続いた。そこから1年半、祖母は意識を取り戻すことなく、逝った。

薄情なもので、祖母が亡くなっても誰も涙ひとつこぼさなかった。父は、「無駄だから」と言って通夜だとか、葬式だとか、そういったこともしなかった。何が無駄なのだろう。

いま振り返ってみると、知っている限り父が母をかばうようなことはなかったし、だからと言って祖母が寝たきりになってからも自分が介護を手伝うようなこともなかった。そして祖母と同じことを言っている。

「寝たきりになってもほうっておいてくれたらいい。勝手に死ぬから」

そんな父の発言を母はハイハイ、と聞き流している。

うちは女3人、男2人の5人きょうだいだ。曲りなりにも全員どうにか無事に成人をして、生きている。児童虐待だとか、育児放棄で誰も死ななかったのは運がよかったのかもしれない。私は結婚するまでの実家での時間はずっと苦痛で終わりがない緩やかな地獄のようだった。母はきっと結婚してからずっとそうだったのだろう。

「今は楽しいよ」と言っているけれど、それまでの時間があまりに苛烈だったからそう錯覚してしまっているだけではないだろうか、と不安になる。

暴力を振るわれれば逃げろ、人権を侵害されるような仕打ちからは逃げろ。でも、暴力も暴言も本人にとって異常なものではなく、当たり前になってしまっていたら? 殴られるのは自分の罪なのだと思っていたのだとしたら……?

今なら、自分たちが殴られることも、母の扱いがぞんざいだったこともおかしいと分かるけれど、当時は「そうされて当然」と思っていた。

家族は自分の帰る場所であり、大切にしなければならないもの。生まれたときからそう思ってしまっているからなかなか覆すことができない。そして、子どもたちの「当たり前」は家族の中で形成されていく。恐ろしいことに、母の扱いは私たちにとって当たり前だった。結婚してから私も妹も、差異はあるにせよ夫の家では母と同じように振る舞わなければならないと思っていた。 家族の当たり前は一度疑ったほうがいい。自分が不幸にならないためにも、家族の誰かを不幸にしないためにも。そして、長く気づかずにいてごめんね、お母さん。

文・ふくだりょうこ

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